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川上哲治の人生 -人吉の偉人 川上哲治の野球人生-

生い立ち

川上哲治は、対象9年(1920年)3月、球磨郡大村(現在の人吉市南泉田町)に川上伊兵次・ツマの長男として生まれました。家は、船宿を営み裕福な家庭でした。

しかし、鉄道の開通など交通網の整備が進むと、生活は次第に苦しくなっていきました。小学生時代の川上少年は、父や母を助けるために、朝と夕方、豆腐やこんにゃくを売って歩いていました。

川上哲治生誕100年|川上哲治氏|川上哲治家族写真

写真:川上哲治氏のご家族

少年野球

5歳の頃、布製のボールを与えられ、父親の伊兵次から野球の手ほどきを受けました。父は、「投手というものは、的に向かったら、投げ終わるまで目をそらすな!」と厳しく指導をおこないました。

大村尋常高等小学校4年生の時、野球部に入部、正選手となり、打順は2番、守備はライトでした。その年の九州大会では、決勝戦で見事に右中間を破るランニングホームランを放ち、これが決勝打となって2対0で九州一となりました。5年生になると恩師「土肥敏雄先生」の厳しい指導のもとエースで4番をつとめました。

川上哲治生誕100年|川上哲治氏|小学校時代

写真左:球磨郡大村小学校(現人吉西小)時代、2列目中央が川上氏、最後列左端が、土井敏雄先生
写真右:大村尋常高等小学校・熊本工業学校賞状

高校時代

当時の進路先は、家の手伝いか、会社勤めが主でした。学業の成績も優秀だった川上少年は、当然旧制中学校へ進学となるところでしたが、熊本県立工業学校(現在の熊本工業高校、以後「熊工」)の野球部から誘いがあり、熊工への進学を決意しました。
しかし進学後、大きな困難が待ちかまえていました。家庭教師と野球の練習、勉強という3つが重なり、どれを中心においたらよいのか迷い、苦しさに耐えきれず途方に暮れてしまいました。 下宿先の院長の勧めで、熊工を中退し、翌年、野球部のない濟々黌に進学し直しましたが、心が荒れ命を絶とうとも考えるようになりました。

そこで父伊兵次は、親子の強い絆で、川上少年を温かく迎え入れ、人吉へ帰すことにしました。
しばらくして人吉中学に転校した夏休み、大村尋常高等小学校の先輩で熊工野球部に在籍する田上選手と野球部長の坂梨先生から「もう一度熊工で野球をしよう」と誘いを受けました。2人の強い説得もあり、父の了解を得た川上少年は、新しい希望に満ちた野球ができる熊工へ再度転入することができました。そこで、名捕手吉原正喜選手と出会い、川上少年の野球人生は大きく開花していくこととなります。

甲子園大会、そして全国制覇へ

川上少年は、ピッチャーとして同学年の吉原正喜捕手とバッテリーを組み、昭和12年(1937)、夏の甲子園全国大会で決勝戦に進出し、中京商業と戦いましたが、3対1で涙をのみました。しかし、3か月後、東京の神宮中等学校野球大会では、宿敵中京商業を破り、堂々の全国優勝を果たしました。

巨人軍入団

昭和11年(1936)に生まれたばかりの「プロ野球」の球団は、戦力となる優秀な選手を探すスカウト活動を行っていました。巨人軍は、九州ナンバーワンと言われていた吉原正喜捕手を獲得しました。哲治の父は、門司鉄道管理局の野球部入りを希望していましたが、この吉原選手の強い勧めで、あこがれの巨人軍への入団を決意しました。入団の条件は、支度金三百円、月給百十円と、当時の一般的な給与と比べるととてもよい条件でした。哲治は、この契約金三百円と月給の半分を仕送りすることを約束しました。少年時代、貧しく苦しかった思い出があったため、何とか親孝行をしたいと願っていたのでしょう。

巨人軍には投手として入団しましたが、その後バッティングの才能が認められ、一塁手に転向しました。昭和16年(1941)までの4年間で、投手成績11勝9敗、ホームラン王、最高殊勲賞、首位打者、打点王など輝かしい成績を残しました。しかし、昭和17年(1942)太平洋戦争が激しくなり、陸軍に召集され、野球を中断せねばならなくなりました。昭和20年(1945)8月、終戦を迎え、人吉へ帰郷し母親を手伝って農業をすることにしました。

川上哲治生誕100年|川上哲治氏|戦後

写真左:巨人軍選手現役時代の川上氏。
写真右:戦後すぐの昭和20年、復員後人吉に帰り農業に従事する傍ら、人吉中(現人吉高校)野球部からも請われて指導。後列中央が川上氏。

しばらくすると、巨人軍から強い復帰の誘いがあり、戦後の食糧困難の中、バットを鍬に持ち替えていた川上選手も、再びプロ野球に戻る決意をしました。

混乱した終戦直後であっても、プロ野球は国民的な人気を集め、特に川上選手の「赤バット」、大下選手の「青バット」は、ファンに鮮烈な印象を与え、当日の位世相を明るくしていました。

川上哲治生誕100年|川上哲治氏|現役時代

写真左:巨人軍時代の川上氏。写真右:巨人軍時代のバッティング。

昭和23年(1948)、川上選手は、青田選手とともに本塁打王となり、この二人の活躍で巨人軍の人気もさらに高まってきました。昭和24年(1949)には、戦後初優勝し、巨人軍は全国の人々から大きく称賛されました。また、川上選手の打球は「弾丸ライナー」ともいわれ、観る人の心をとらえて放しませんでした。もともと右利きだった川上選手は、小学校低学年の時に負傷した右手をかばい左手を鍛えて左右両方の手で投げ、打てるように努力しました。

左打者でありながら、もともとの右利きの握力と「ダウン・スイング」の考えが結びついて、弾丸ライナーが生まれました。これは、川上選手の小さいころからの努力の結晶です。
そして昭和31年(1956)ついに、史上初の2000本安打を達成し、「打撃の神様」とたたえられました。現役時代の背番号「16」は、巨人軍の永久欠番になっています。

巨人軍監督

昭和36年(1961)には水原監督の後を受けて巨人軍監督に就任しました。監督川上哲治は、米大リーグドジャーズの戦法を取り入れ徹底したチームプレーを優先するスタイルを築きました。そして、スーパースター長嶋や王をはじめとして金田・堀内・高橋(一)らの看板党首、俊足柴田、監守の高田・土井、名捕手森など後世に名高い一流選手を育てました。

昭和48年(1973)までに11回のリーグ優勝を果たし、その11回すべてで日本シリーズを制しています。特に昭和40年(1965)から昭和48年(1973)まで、日本シリーズ9連覇(V9)は球史に残る偉業です。昭和50年(1975)長嶋茂雄に監督を引き継いだ後は、野球解説や評論家としても活躍し、長年にわたり少年野球の普及育成に尽力しました。その功績が認められ平成4年(1992)勲四等旭日小綬賞を受賞し、文化功労者として表彰されています。

  • 1991年 人吉市名誉市民に推載
  • 2013年10月28日 93歳(享年)逝去
  • 2013年12月12日 熊本県民栄誉賞

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